Translator's Diary

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2010年 09月 25日 ( 1 )

気付けばアラフォー

気付けばアラサーではなくアラフォーになっていた。

徹夜すればその後3日間は廃人になるし、新陳代謝は低くなる一方だ。

しかし先日、あるコラムに出会った。
思いっきり引用(乱用)する。


時間が流れるとはどういうことだろうか。私はさきほどおしゃれなカフェで楽しくおしゃべりをしていた。そのあと夕暮れの小道を歩いて自宅に帰ってきた。そしていまこうやってエッセイを書いている。

夕方におしゃべりをしていたあのカフェの時間は、もうどこにも存在していない。それは私の知っているこの宇宙から、完全に消え去ってしまったのである。帰り道で見たあのあでやかな夕焼け空も、もうどこにも存在しない。あしたの夕焼けもきれいだろうが、しかしそれは今日見た夕焼けとはまったくの別物であるはずだ。

いま私が経験していることは、やがてかならず消え去っていく。そして一度消え去ったものは、もう二度と戻っては来ない。時間が流れるとは、このようなことを指しているのである。私も頭ではよく理解していた。しかしながら、腹の底からこのことが分かりはじめたのは、ここ最近のことである。

50歳になったとき、私はふと気がついた。私の子ども時代、青年時代、そして熱気に包まれていた40代は、もう二度と戻ってくることはないのだと。私はもう二度とその若い自分を生きることはないのだし、この宇宙に若い日の私がもう一度現れることもけっしてない。私が肉体的な若さを内側からありありと感じながら生きるということが、この宇宙の中ではもう二度と起きないのだと悟ったとき、私は時間の流れというものの本質をこの指でありありとつかんだような気がしたのだ。

その気持ちをどう表現すればいいのだろうか。それは、これから未来に向かって開かれていくはずの可能性が、何者かによって無理やりに狭められていくような感じであり、あるいはまた自分の人生の残り時間が目に見えて使い尽くされていき、その向こうに待っている暗黒世界へと足の先から落ちていくような感じでもあった。

さらに言えば、いままで親しんできた世界から突然そっけなく突き放されて、もう後戻りできない深淵の前にひとり孤独に立たされたようでもあった。だがそれは私がそのときに感じたことの一面でしかなかったのだ。

なぜなら私はもう一方において、目の覚めるような驚きの感覚をも経験していたからである。いま私が見ているもの、聴いているもの、触っているもののひとつひとつが、もうこの宇宙には二度と現れてこない一度かぎりのものであると知ったとき、身の回りのあらゆるものごとが何かしら神々しい光に満ちて迫ってきたように思えたのである。

目の前にあるひとつひとつのものごとが、どうしようもなくかけがえのない「すごい」ものであって、あるいはまた私があなたと会話しているそのひとつひとつの言葉も、いまここで一度しか開花しない宇宙の花びらのようであると感じられたのである。今起きていることはすべてが奇跡のようであり、それは無限の深淵からいまここへと次々と溢れ出してくる泉のようなものでもある。そしてそれは日常の些細な出来事の上にのみ現れる小さな至福の連続であり、そこに時間の流れの真の意味があるように思ったのだった。

「時間の流れの真の意味」森岡正博(哲学者)
by may3da | 2010-09-25 01:28 | 日記